2014年8月11日月曜日

第2回 20140801 「湯釜祭」


 
 8月1日午前9時30分から、道後公園北口にある「湯釜」のお祭りに参列しました。

松山市湯之町(道後温泉本館のある町)の「道後村祭り」初日に行われる、大切な行事です。

円満寺のご住職によって、道後温泉の湯が今年も豊かに湧きあふれて、人々の健康や生活が守られますよう「湯釜」に祈願がなされました。

「湯釜」は、現在の道後温泉本館が改築された明治27年(1894)まで使用されていましたが、新しい湯釜が設置されましたので、それまでの湯釜は道後の湯を守る神聖な「湯釜」として祭られることになりました。

「湯釜」は花崗岩で作られた石造物で、行基によって造られたと言い伝えられ、県指定有形文化財となっています。天平勝宝年間(749~757)の頃の作だといわれています。

 直径166.7センチメートル、高さ157.6センチメートルのかなり大きいものです。

孝謙女帝の御代に、東大寺の大仏建立の寄進を求めて行基が諸国を廻りましたが、その途次、伊予の国に廻ってきた時のことかと思われます。

松山にある円満寺や繁多寺などは、行基が関係したといわれる寺々ですが、これらと共に行基の足跡を伊予の国に残しているのがこの「湯釜」です。

この石造物は、上部の宝珠部と下部の基台に別れており、上下の継ぎ目から湯が流れ出るようになっています。

 宝珠部の中央には、左手に薬壺(やっこ)を持つ、薬師如来の座像が彫られていますが、長年の間に磨滅して、角が取れまろやかな良い感じの薬師如来像です。

 薬師如来像が見守る温泉の効能は、どの温泉よりも効き目があると感じられたことでしょう。

 宝珠部の頭部には、これも磨滅しかかっていますが、「南無阿弥陀仏」の六字名号が彫られています。河野通有の依頼によって一遍上人が自ら彫ったものといわれています。

一遍上人は、河野水軍で有名な河野氏の出で、生誕地は、道後温泉本館のすぐ東側の山際に建つ宝厳寺だと言われています。

 地元では、行基が造り、一遍上人が「南無阿弥陀仏」と彫り込んだこの「湯釜」を、「湯釜薬師」と呼んで、道後温泉の守りとして大切に祀っています。

 道後温泉にお越しの時は、道後公園北口の丘の麓にある「湯釜薬師」にぜひお立ち寄りください。

 道後では、8月1日から8月31日まで「道後温泉夏まつり」を行っています。

 

「湯釜祭」
 

 

2014年8月1日金曜日

第1回 20140801 「子規の俳句新曲『春や昔』」


 
こんにちは!糸瓜の間へようこそ。

子規のふるさと松山からの子規さんだより、今日から始めます。

よろしく。

とても嬉しいニュースから。

新井満さんにお願いしていた子規さんの俳句の歌がとうとう完成しました。

「春や昔」と「正岡子規のふるさとシンフォニー」です。

去年の秋、「子規のいる街シンポジウム」が行われました。

 

パネリストは、新井満さん、今は亡き子規記念博物館名誉館長天野祐吉さん、野志克仁松山市長、それに私、竹田美喜でした。

子規について話が盛り上がってきたときに、野志市長や天野さんから、「新井さん、子規さんの俳句で歌を作ってくださいよ」という、お願いが出ました。

5・7・5の17音しかない俳句で歌を作るというのは、とても難しいとわかっていながらのお願いでした。

その時、俳句で歌を作ることが、どれほど難しいか、一番わかっていらっしゃったのは、歌作りのプロ新井さんだったと思います。

困惑する新井さんに、会場からの大きな拍手が後押しして、無理やり引き受けていただいたのが、去年の秋でした。

 「こんなに早く作ってくださるなんて思ってもいませんでした」、これは6月28日の新曲発表会「もし正岡子規の俳句にメロディをつけたなら」に駆けつけてくださった女性のことばです。

みんなが待ち望んでいた歌ができました。
新井満さんと竹田美喜館長
 

歌のできばえは?

一時間後には、舞台も客席も一緒になって、大合唱でしたから、おわかりになると思います。

子規が愛したふるさと松山、少年期の子規、瀬戸内の城下町、太陽の明るさ・・・

竹田の感想は、「平成の唱歌が生まれた!」です。

松山市立子規記念博物館でも、この曲を流すことを、新井さんからご快諾いただきましたので、近々のうちに、館内で定時に「春や昔」の曲をお聞きいただけることになりました。

ちなみに、「春や昔」は子規の「春や昔十五万石の城下哉」の句によります。

この句は、市民の最も愛している子規の句で、新井さんが実施しました市内の小学生アンケートでも群を抜いてトップの句だったそうです。

早く、みなさまにもお聞きいただけたらと、CDの発売が待たれます。

 
写真は、出来上がった「春や昔」の曲について語っている新井満さんと竹田です。